究極の学びは研究にあり
下記の為末大氏の講演を読みました。
努力し続ける方法は「自分を飽きさせない」
為末:陸上競技の練習って結局実験なんですよね。まあほとんど外から見たらわかんないんですけど。
AとBって2つあるとして、例えば腕振りを大きめに走るのがA、小さめに走るのがB。1週間Aをやって、1週間Bをやってみると、どっちがどんな効果が出たかっていうのを僕らはやっぱり体感と、あと数字にも若干出るんです。「あ、Aのほうが良かったな、腕振りは大きく振ったほうがどうも良さそうだ」という実験をずーっとやっていくんですね。
それがおもしろいですね。検証すると、こうやったらいいんじゃないかっていうことを考えながらやっていくので。
だから陸上競技に関して言うと喜びっていうのは2つあって、1つは達成される喜び。これは勝つ喜びですけど、一方で改善される喜びというのと仮説が当たっていく喜びっていうんですかね。
この2つの喜びをうまく行き来しながら、気がついたら10何年頑張ってる、みたいなのがパターンじゃないかと思います。
(中略)
あれが実験の繰り返しだと思っていくと、何万回何十万回できるんですけど、ただの素振りは反復だと思ってる人は、やっぱ何千回くらいいったところで飽きちゃって引退していく。
この話はとてもうなづけます。私も日々の授業をこのように実験だと捉えていて,仮説を立てては検証して学びを得るということを繰り返しています。これは単なる学びというより,研究活動そのものですね。私が掲げている「自ら学ぶ力を持たせる教育」の延長線上には,日々の中で自分で仮説を立てて検証をし学びを得ていく「研究者」を目指して育てていくということになるんだろうと思います。
以下,独り言
私は学習欲がとても強いタイプの人間だと自覚していますが,自分がしたい学びの方向性が変化してきたように思います。昔は「偉い人のありがたい話」を熱心に拝聴したり読書したりして,「私自身が」「新しい知識やスキルを得る」ことに関心があったのですが,最近はそういうのにあまり関心を持たなくなりました。それよりは,私自身が「既に持っている知識やスキルを磨く」ことや,「学生/教師/技術者などの他の人が」新しい知識やスキルを得ることにより強い喜びを感じるように変化してきました。「偉い人のありがたい話」は本当にありがたいので他人に聞かせたいとは思うのですが,自分自身は「偉い人のありがたい話」を聞くよりも,自分でひたすら実験して仮説検証を重ねていくことにできる限りの時間を割きたい。そう思うようになりました。
それはなぜかと考えたら,次の2つのことをいわば信念として思っていることに気づきました。
- 真実は現場にある。偉い人が言ったからといって真実とは限らない。
- 自分の問題は自分にしか解決できない。もちろん,他人の考察は参考になるが最終的には自分で解決する必要がある。
このように聞くと,すごく内にこもっているように聞こえるかもしれません。確かにそうかもしれませんね。でも基本的に人と話すのは大好きです。とくに学ぶ意欲を持っている人と話すのは本当にかけがえがないと思えます。だから勉強会を主催したり,他の勉強会に参加して得たことを話し合ったりする場をとても大事にしています。