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研究テーマを変えることについて(第1部〜大学院に入るまで)

私,山崎進は大学院生時代から通算して今まで研究テーマを5回ほど大きく変えてきました。その経験をお話ししたいと思います。

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大学進学〜材料系〜金属工学科

大学受験の際に,志望校全てを情報系で揃えるつもりでいました。しかし,センター試験の結果が芳しくありませんでした。当時は情報系が一番人気で,第1志望の大学の中では材料系の人気がそうでもありませんでした。そこで,第1志望は情報系のままで,第2志望を材料系で出願したところ,第2志望に受かりました。

材料系への進学によって出来た友達はとても楽しい人ばかりでした。ただ,授業にはあまり関心を持てず,サークル等の課外活動にばかり身を入れる毎日でした。成績は超低空飛行でした。プログラミングの授業も一応ありました。viエディタを使ってFORTRANのプログラミングをするという授業でした。将来は科学計算をするだろうというカリキュラム上の意図だったんでしょうね。その授業だけは超優秀な成績を取りました。私にとっては演習課題が簡単すぎました。しかし,その時に先生やTAの方々にいろいろ教わって,勝手にいろいろ遊んでいました。今思えば,これは初めて触るワークステーションでしたね。

転学科の試み〜研究室配属

たしか2〜3年生くらいから,どうしても情報系を学びたくて,転学科への意欲が出てきます。コンピュータを学べる学科には,情報工学科と情報科学科があったのですが,自分の適性や将来の進路などを深く考えず,当時親しかった友人の多かった情報科学科を選びました。自分が所属する金属工学科で学ぶ一方で,1学年下の情報科学科の授業を学びました。この時にできた,主に留年組の友達も楽しい人たちばかりでした。その友達の中で一番プログラミングができたので,プログラミングについては頼られる一方,数学科目とかを教わっていました。

いよいよ転学科しようと決意して,金属工学科の学科長の先生のところに相談に行きました。学科長の先生は,一通り私の話を聞いた後で,「転学科するとしたら1学年下になるのは確定である。一方,金属工学科を卒業してから大学院等で学ぶこともできるし,その場合は留年することはない。一度考え直したらどうか?」とおっしゃいました。それで私もハッとなって,考え直し,転学科せずに,一旦金属工学科を卒業する道を選びました。

卒業研究では,その面談した学科長の先生の研究室を選びました。けっこう人気のある研究室だったので,最終的にはじゃんけんで配属を決めることになり,なんとか勝ち残りました。友達から「事前にどこの研究室に行くかを友達に表明しておけよ」と苦言を言われました。この時には金属の大学院に行くつもりはなかったので,だいぶ申し訳なく思っていました。

金属の研究室〜就職活動

研究室に入ってから最初は,就職するつもりでいました。もともとゲームプログラマになりたかったのですが,ゲーム業界に就職するには作品の提出が必須でした。高校時代にはかなり凝ったゲームプログラミングをしていたものの,大学に入ってからはプログラミングをしていなかったので,手元には高校時代までの経験しかなく,高校生当時に作った作品も散逸してしまっていました。 それに就職するには直近で開発した作品じゃないとダメだと思い込んでいました。今だったら多少知恵がついたので,高校時代に作品を作ったと主張してなんとか切り抜けたかもしれないのですが,当時はそんな知恵も回りませんでした。

そこで,次善の策として,ゲーム雑誌編集部への就職を試みました。研究室の助手の先生が雑誌編集者を紹介してくださりました。この方がなんともアレな方で,編集部にはこんな人たちばかりなのかと愕然としました。その出来事にショックを受けた私は,ゲーム雑誌編集部への就職はやめておこうと思いました。

普通の材料系の就職活動もしました。当時はまだバブル崩壊の影響も甚大ではなく,熱烈に誘いを受けた企業もありました。しかし「本当はコンピュータの仕事がしたい」と打ち明けたときに「ん〜今はないけど,でも来てほしい!」みたいな感じの対応だったので,意気消沈してしまったのと,本音と違う就職先にアプローチするのに引け目を感じて,就職活動するのをやめました。

大学院進学に向けて

そうこうしているうちに「やっぱりコンピュータについてしっかりと学びたい!」と思うようになり,大学院進学を決意しました。友人からは真摯な忠告を受けたりもしました。「コンピュータは,いずれ,どこの分野にも入る。せっかく材料について学んだんだから,それを生かして金属工学でコンピュータを生かすような仕事に就けばいいじゃないか」 でも今度の私には迷いはありませんでした。やっぱりコンピュータの本流で心ゆくまで勉強したい!

どういう分野に進むかを考えたときに,1つテーマを決めていました。私はゲームプログラミングと音楽プログラミングを高校時代にやっていたのですが,特に音楽プログラミングに必要な割込み処理にとても苦労した経験を持っていました。大学に入ってから,ある時,図書館で見かけた本がITRONのリファレンスマニュアルでした。ITRONというのはリアルタイムカーネルというやつで,日本ではデファクトスタンダードになろうとしていました。私はこのリファレンスマニュアルを読んで「これはゲームプログラミングや音楽プログラミングに使える!」と直感しました。リアルタイムカーネルというのは,割込み処理や,それに関連するタイマ処理やマルチタスキングなどを専門に扱うOSです。「これさえ習得すれば,楽してゲームや音楽を作れるじゃないか!」 そう思った私は,OSにとても興味を持ちました。

余談ですが,この時,私はITRONのメーリングリストに参加するという暴挙に出ました。趣味でパソコン通信に長けていたので,そのノリでメーリングリストに入ったのです。そのメーリングリストは企業の技術者や大学の研究者がITRONについて濃厚な議論を繰り広げていました。私は空気を全く読まずに,何やら質問をしました。この時に,真摯に私の疑問に答えてくださったのが,当時メーリングリストの管理人で,東京大学の坂村研究室の博士後期課程の学生だった高田広章先生でした。この時に「組込みシステム」というキーワードと出会います。私は「組込みシステム」やその周囲の人たちに,とても温かい好印象を持ちました。後の回で説明しますが,この出会いが,大きく私の人生を変えていくことになります。

他に興味を持ったのは,当時流行っていたフラクタルです。フラクタルというのは,図形の性質のことで,ある図形の一部を拡大した時にまた同じ形が現れるような,自己相似の形を持つような場合です。フラクタルに注目したのは,フラクタルを用いると,樹木や岩石など,自然の造形をコンピュータグラフィックスで表現できるからです。それもまたゲームプログラミングに必要な魔法の技術だと考えていました。

そういうわけで,大学院進学を考え始めたのですが,1つ問題がありました。金属の勉強は研究室に配属されるまでは面白いと思ったことはなかったのですが,研究室に入って深く学び出すと意外と面白いことがわかりました。また今まで勉強をサボっていたので,研究室の勉強についていくことは至難でした。一方で,大学院受験となると,情報系の勉強をきちんとしないと合格しません。この2つの異なる勉強を両立させる自信は全くありませんでした。

そこで必死になって探しました。探したところ,1つだけ有望な進路がありました。金属の勉強をして情報系に進学できるという夢のような受験制度がある大学院でした。正確にいうと,その専攻は,私が当時いた大学のどの専攻の入学試験を受けても良くて,成績がその専攻内で上位半分以上の成績が取れれば合格という制度でした。しかも研究室にはOSを研究している研究室もフラクタルを研究している研究室もあるという。

それが私が進学することになったシステム科学専攻です。

大学院受験

入試前に金属のことについて猛勉強するようになりました。そして受験を迎えます。ペーパーテストと面接で構成されています。ペーパーテストの手応えはバッチリでした。その後すぐ面接だったのですが,意気揚々として臨みました。

ちなみに後でわかったのですが,ペーパーテストの成績は合格していたので,成績上位半分以上に入っていたことになります。最下位を争うレベルからの躍進です。研究室の助教授の先生が「意外とやるのでビックリした」と後で感想を述べてくださいました。

研究室の志望順位はOSの研究室,フラクタルの研究室,そしてもう1つORの研究室という順番でした。これらの研究室は情報科学科の研究室でもあります。面接の時に,OSの先生は欠席で,フラクタルとORの先生が面接官でした。後から聞いたのですが,OSの先生は骨折して入院していたのでした。

さて,この2人の先生,ひとしきり面接をした後,しきりに「君はOSの研究室が第1志望なんだよね?」と何度も繰り返し念押しされました。不審に思いながら「はいそうです」と答え続けました。

果たして,無事合格となり,OSの研究室に所属することになりました。

さて,なぜそのように念押しされていたのかについては,私が立場を変えて大学教員になってから初めて理解できました。当時の私は,試験勉強に夢中で,研究室見学するのを完全に失念していました。情報科学科に転学科しようとしていたことがあったので,先生がたも私のことを知っているだろうという甘えもありました。

しかし立場を変えて大学教員になってみると,大学教員というものは,接する学生があまりにも多いので,普段接している研究室の学生の他には,特に覚えていないものだということがわかりました。しかも当時の私は研究室室見学にも来ていません。つまり,何処の馬の骨かわからない奴が自分の研究室を志望してきているというわけです。さらに私は情報学科の出身ではなく,入試も情報系ではなく金属という全く異なる分野で受験してきています。つまり,どのくらい基礎知識があるのか,全く参考にならないというわけです。普通に考えて,そんな学生,指導に苦労するリスクが高いと判断されても仕方がないじゃないですか。

そういうわけで,欠席裁判ということもあって,先生がたはOSの先生に私の指導責任を押し付けたということです。

卒業研究〜卒業

所属していた金属の研究室は,最初でこそ肉体労働に慣れず,しかも同じ研究室なのに肉体労働に従事する組とそうでない組に分かれていて格差を見せつけられたので,ちょっと嫌になっていた時期もありました。しかし,先生がたや先輩,同期は温かく,また研究も面白くなってきたので,かなり積極的に研究を進めるようになってきました。

卒業研究の結果でこそ,研究対象にしていた試料ができが悪かったために良い結果が得られず,少し残念な感じで終わってしまいました。しかし,卒業する頃には「このまま金属の研究を続けても良かったかも」と少し後悔する気持ちもありました。

でも,いざ卒業して新天地でコンピュータの研究ができるようになると実感してきたときには,もう期待で頭がいっぱいでした。

こんな感じで,私の1回目の研究テーマ変更は,次のテーマへの期待とともに,前向きにできました。

つづく。

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